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孝明天皇(こうめいてんのう)は何の神様?ご利益・家系と祀られている神社 | 神様図鑑

孝明天皇コウメイテンノウは、京都の「おや神様」や国の護り神として、平安神宮などに祀られている天皇です。幕末に国と人々の行く末を案じた生涯を偲び、亡くなった後に神として祀られるようになりました。神として敬われる理由をはじめ、ご利益、明治天皇メイジテンノウとの親子関係、死因をめぐる疑問、現在祀られている神社を紹介します。

目次

孝明天皇コウメイテンノウは何の神様?

孝明天皇コウメイテンノウは、国と人々の安泰を願った生涯を偲び、国の護り神として敬われる幕末の天皇です。平安神宮では、京都に都を開いた桓武天皇カンムテンノウとともに、長い都の歴史を見守る「おや神様」として祀られています。

生前は第121代の天皇として、1846年に皇位を継ぎ、翌1847年に即位の儀式を行いました。外国との通商が大きな問題となるなか、外国勢力を退けようとする攘夷と、朝廷・幕府が協力する公武合体を求めました。神々への祈りを重ね、在位の全期間を京都で過ごした天皇でもあります。

死後に神として祀られた背景には、その志を受け継ごうとする人々の働きがありました。愛知県では、宮中警護にあたった旭形亀太郎が孝明天皇コウメイテンノウを祀る神社を創建しました。京都では、都の歩みと文化を後世へ伝えようとする信仰の中で、昭和期に平安神宮への合祀が進められました。

生前に仕えた人物の敬意と、京都の歴史を大切にする市民の思いが、孝明天皇コウメイテンノウを神として敬う信仰を支えています。現在は北海道や岡山でも祀られ、国の安泰から日々の暮らしの安全まで、各地の神社で祈りが捧げられています。

孝明天皇コウメイテンノウの名前・別名

「孝明天皇コウメイテンノウ」は、亡くなった後に贈られた諡号(しごう)です。生前の個人名にあたる諱(いみな)は統仁オサヒト、幼いころの呼び名は煕宮ヒロノミヤでした。

区分名前・呼び名
死後の呼び名・祭神名孝明天皇コウメイテンノウ
諱統仁オサヒト。皇位を継ぐ前は統仁親王オサヒトシンノウ
幼称煕宮ヒロノミヤ

在位中には、弘化・嘉永・安政・万延・文久・元治・慶応という七つの元号が用いられました。「孝明コウメイ」という呼び名には、亡くなった天皇を称える意味が込められています。明治以降の天皇の呼び名と違い、在位中の元号から付けられたものではありません。

孝明天皇コウメイテンノウの御神格・ご利益・ご神徳

孝明天皇コウメイテンノウは、京都の歴史を見守る神、国の安泰を願う神として信仰されています。奉斎する神社では、厄除けや家内安全など、身近な暮らしに関わる祈願も行われています。

孝明天皇コウメイテンノウの御神格

項目内容
御神格京都のおや神様(平安神宮)、国の護り神・敬神崇祖の神・道開きの神(玉鉾神社)

玉鉾神社の由緒は、孝明天皇コウメイテンノウが古い祭祀の復興や歴代天皇の御陵の修造に力を注いだことを伝えています。「敬神崇祖」は神々を敬い、祖先を尊ぶという意味です。同社では、こうした信仰の篤さや、幕末の危機に向き合った生涯を敬い、国の護り神、道開きの神などの呼び方で祀っています。

孝明天皇コウメイテンノウのご利益・ご神徳

項目内容
ご利益厄除け、家内安全、商売繁盛、交通安全、心願成就など、奉斎する神社での祈願
ご神徳国や皇室の安泰、京都と崇敬者の平安を守る神として仰がれること

平安神宮では、人生の節目や日々の暮らしに関わる祈願が行われています。孝明天皇コウメイテンノウの鎮座日にちなむ毎月19日の月次祭では、崇敬者の平安を祈り、巫女が「平安の舞」を奉納します。

玉鉾神社でも、厄除け・家内安全・商売繁盛・交通安全などの祈祷が行われています。同社では皇室の安泰や国の繁栄とともに、世界の共存共栄を願う祭祀が続けられており、国を守るという信仰と人々の暮らしへの祈りが結びついています。

孝明天皇コウメイテンノウの家系と6人の子供

孝明天皇コウメイテンノウの父は仁孝天皇ニンコウテンノウ、生母は正親町雅子です。正配として女御(にょうご)の地位にあった九条夙子は、後の英照皇太后エイショウコウタイゴウにあたります。子供は皇子2人・皇女4人で、そのうち成長して皇位を継いだのが第二皇子の明治天皇メイジテンノウでした。

関係人物・説明
父仁孝天皇ニンコウテンノウ。孝明天皇コウメイテンノウは第四皇子
生母正親町雅子。藤原雅子とも表記され、新待賢門院とも呼ばれる
女御・正配九条夙子。後の英照皇太后エイショウコウタイゴウで、明治天皇メイジテンノウの嫡母
側室・皇子女の生母坊城伸子、中山慶子、堀河紀子
子・第一皇子名前を付けられる前に早世。生母は坊城伸子
子・第二皇子明治天皇メイジテンノウ。諱は睦仁ムツヒト、幼称は祐宮サチノミヤ。生母は中山慶子
子・第一皇女と第二皇女順子内親王、富貴宮。生母はともに九条夙子
子・第三皇女と第四皇女寿万宮、理宮。生母はともに堀河紀子
異母姉淑子内親王スミコナイシンノウ。桂宮家を継いだ姉
同母弟節仁親王ミサヒトシンノウ。幼くして亡くなった弟
異母妹和宮。仁孝天皇ニンコウテンノウの皇女で、将軍徳川家茂の正室となる

明治天皇メイジテンノウを産んだのは中山慶子です。九条夙子は、1860年に祐宮サチノミヤが皇位を継ぐ皇子と定められた際、皇室の制度上の母にあたる嫡母とされました。孝明天皇コウメイテンノウの子供のうち、明治天皇メイジテンノウ以外の5人は幼くして亡くなっています。

父子の間には、和歌や書を通じた日常の交流もありました。明治神宮が紹介する逸話では、孝明天皇コウメイテンノウは幼い皇子に歌の題を与え、清書した文字のよいところを褒めたといいます。皇子の歌を自ら添削することもありました。幕末の難しい政治に向き合う一方で、子の成長を見守る父としての顔も伝わっています。

異母妹の和宮は、1862年に徳川家茂と結婚しました。朝廷と幕府の協力を進める公武合体のための婚姻で、孝明天皇コウメイテンノウが結婚を認めました。

孝明天皇コウメイテンノウの史実・伝承

1863年、孝明天皇コウメイテンノウは将軍徳川家茂を伴って京都の下鴨神社・上賀茂神社へ参拝し、攘夷を祈願しました。天皇を乗せた鳳輦(ほうれん)という御輿と大行列、それを拝もうと集まった人々の姿が、記録や絵画に残されています。

御所の外で捧げた祈り

『元治夢物語』に記された賀茂行幸をもとに、情景や心情を添えて物語にしました。

御輿が揺れるたびに、重ねた衣が身体を押す。孝明天皇コウメイテンノウは背を伸ばし、外から聞こえる足音に耳を澄ませた。幾人もの足がそろって進む音に、自分の呼吸まで引き寄せられていく。

文久三年三月、賀茂の社へ向かう道には、裃(かみしも)を着た武家が並んでいた。御輿の前後には大勢の供が続き、将軍徳川家茂もその行列に付き従う。賀茂川のほとりには都の人々が集まり、近江から訪れた者も加わっていた。

行列が近づくと、人々は道端に身を伏せた。涙を流しながら拝む者があり、手を打つ音が重なっていく。遠くから待ち続けていた人々の前を、御輿はゆっくりと進んだ。

その音を聞きながら、孝明天皇コウメイテンノウは衣の内側で息を整えた。外国船が近海へ迫り、国の行く末をめぐって人々の意見が割れている。日々届く知らせを思い返すほど、肩にかかる衣まで重くなるようだった。

やがて御輿の揺れが止まった。社頭へ進み、神前に向き直ると、張りつめていた胸から長く息が抜けた。朝廷も幕府も、ここまで拝みに来た人々も、同じ国に生きている。

どうか、国の人々が心を一つにし、外国の勢力を退けられるように。孝明天皇コウメイテンノウはその願いを神前へ捧げ、深く頭を下げた。祈りを終えて顔を上げたとき、衣の重さは変わらずそこにあり、孝明天皇コウメイテンノウはもう一度、背を伸ばした。

この行幸を記した『元治夢物語』は、京都の馬場文英が翌1864年に著したものです。下鴨神社や上賀茂神社には行幸を描いた絵画が伝わり、京都産業大学にも1863年制作の行幸図巻が所蔵されています。

孝明天皇コウメイテンノウの死因と暗殺説

孝明天皇コウメイテンノウの死因は、一般に天然痘とされています。亡くなったのは慶応2年12月25日で、現在の暦では1867年1月30日です。満35歳、当時の数え年では36歳でした。

まだ35歳という若さでの急な死に、当時から毒殺の噂も流れました。後世にも、侍医の記録に残る経過を「いったん回復へ向かっていたのに、容体が急変した」と捉え、毒殺を疑う説が唱えられました。

一方、歴史学者の原口清は、1989年に、こうした病状も重い天然痘によって説明できるとする病死説を示しました。毒殺説を唱える石井孝との間では論争になりましたが、これをきっかけに病死説を支持する研究者が増えました。急変をどう捉えるかについて議論は残るものの、現在は天然痘による病死が有力とされています。

御陵は、京都市東山区の泉涌寺にある後月輪東山陵です。平安神宮では、新暦の命日にあたる1月30日に孝明天皇コウメイテンノウ祭を行い、その生涯を偲んでいます。

孝明天皇コウメイテンノウゆかりの神社・祀られている神社

孝明天皇コウメイテンノウを祀る神社は、京都をはじめ、愛知、北海道、岡山にもあります。京都の歴史を記念する神宮、かつて仕えた人物が創建した神社、開拓期に始まる地域の鎮守など、それぞれ異なる由緒を受け継いでいます。

平安神宮

京都府京都市左京区に鎮座し、桓武天皇カンムテンノウと孝明天皇コウメイテンノウを祀ります。1895年の創建時の祭神は桓武天皇カンムテンノウで、孝明天皇コウメイテンノウは1940年10月19日に新たに祀られました。

その準備として1938年に奉祀奉賛会が設けられ、社殿の増改築が行われました。現在、10月19日の孝明天皇コウメイテンノウ御鎮座記念祭では、表千家・裏千家・武者小路千家・薮内流の家元が輪番で神前にお茶を供えます。献茶には宇治から奉献された銘茶が用いられ、祭儀の後には境内に茶席が設けられます。

⇒平安神宮公式サイトはこちら

玉鉾神社

愛知県知多郡武豊町にある、孝明天皇コウメイテンノウを祭神とする神社です。1899年11月28日に鎮座し、旭形亀太郎が創建者・初代宮司となりました。

社伝では、旭形亀太郎は宮中警護の力士隊を率い、禁門の変の際にも天皇の身辺を守ったとされます。天皇から託された遺勅に従って奉斎を目指したと伝えられ、神社の造営には私財を投じました。現在は地元をはじめ全国の崇敬者によって支えられ、初宮詣や厄除けなどの祈祷も行われています。

⇒玉鉾神社公式サイトはこちら

獅子内神社

北海道石狩郡当別町の獅子内地区に鎮座し、現在は天照大御神アマテラス・桓武天皇カンムテンノウ・孝明天皇コウメイテンノウを祀ります。開拓期にできた二つの農場の神社を、地域の人々が一つにまとめた鎮守です。

その始まりは1895年で、平安農場には当時桓武天皇カンムテンノウを祀っていた平安神宮の分霊が、京坂農場には天照皇大神アマテラスが祀られました。地域のまとまりを願う人々の協議によって1920年に二社が合祀され、1926年に社殿が完成しています。現在も毎年9月15日に例祭が行われ、開拓以来の祈りが受け継がれています。

⇒【北海道神社庁】獅子内神社の紹介はこちら

孝明天皇コウメイテンノウが祀られている主な神社

上で紹介した3社に加え、岡山県の雄神川神社にも孝明天皇コウメイテンノウが祀られています。

神社名住所
雄神川神社岡山県岡山市東区
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