桓武天皇は、平安京を開いた功績をたたえられ、「京都の祖神」として祀られる神様です。その信仰には、明治時代に京都の復興を願った人々の思いが込められています。二度の遷都や家系、現在も祀られている神社をたどります。
桓武天皇は何の神様?
桓武天皇は、平安京を開いた功績によって、京都の祖神として敬われている第50代の天皇です。737年に生まれ、781年から806年まで在位しました。
現在の信仰を代表する平安神宮が創建されたのは、平安遷都1100年の記念事業が行われた1895年です。明治初め、天皇と朝廷が東京へ移った京都では人口が減り、町の活気を取り戻す取り組みが進められていました。そのなかで、都としての京都の始まりを担った桓武天皇を祀り、千年以上にわたる都の歴史を後世へ伝えようとする動きが起こりました。
1893年には京都市会が神社の造営を議決し、2年後の創建につながりました。京都の伝統文化を守り育てる願いに、世の中が穏やかであるよう祈る「四海平安」の願いを重ねた神社です。都を開いた天皇への敬意と、京都の復興を願う市民の思いが、桓武天皇を祀る信仰に結びついています。
地方には、桓武平氏の祖先として敬う信仰や、土地に残る伝承をもとに祀る神社もあります。現在も京都の祭りや地域の祭礼を通じて、その名が受け継がれています。
桓武天皇の別名と生前の名前
「桓武」は死後に用いられる名前で、漢風の諡号と呼ばれます。生前の実名は山部で、親王だった時期には山部親王と呼ばれました。
| 区分 | 名前・呼び名 |
|---|---|
| 生前の名 | 山部、山部親王 |
| 諡号・別称 | 桓武天皇、日本根子皇統弥照天皇、柏原天皇 |
日本根子皇統弥照天皇は、和風の諡号です。『日本後紀』には、葬送に際して「日本根子皇統彌照尊」の名を奉ったことが記されています。柏原天皇という呼び名もあり、京都市伏見区にある陵は柏原陵と呼ばれています。
桓武天皇の御神格・ご利益・ご神徳
桓武天皇は、京都の祖神として、また一族や土地の守り神として敬われています。平安神宮では日々の平安を願い、厄除や家内安全などを祈ります。
桓武天皇の御神格
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 御神格 | 京都の祖神、地域・一族の守護神 |
平安京は、千年以上にわたって天皇と朝廷の拠点となり、京都の政治や文化の土台をつくりました。その始まりを担った桓武天皇は、京都という町の祖神として敬われています。
一族の守護神としての信仰は、桓武天皇を祖先とする桓武平氏の系譜に結びついています。茨城県ひたちなか市の橿原神宮にも、地元の平氏一族が祖先神として敬った由緒が残っています。都を開いた天皇をたたえる信仰と、祖先を祀って一族の安泰を願う信仰の両方があります。
桓武天皇のご利益・ご神徳
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ご利益 | 厄除、家内安全、商売繁盛、交通安全、身体健康、学業成就など(平安神宮の祈願) |
| ご神徳 | 暮らしの平安を守ること、京都や地域・一族を見守ること |
平安神宮では、桓武天皇と孝明天皇の二柱に、人々が健やかに暮らし、家や仕事が栄えるよう祈願します。初宮参りや七五三では、子供の成長を祝い、これからの無事を願います。京都全体の平安を願う信仰が、一人ひとりや家族の日々の祈りにもつながっています。
授与品には、無病息災・開運招福を願う平安守、厄除守、学業合格守などがあります。人生の節目や普段の暮らしのなかで、さまざまな願いを託してお参りされています。
桓武天皇の家系図と血筋
桓武天皇の父は光仁天皇、母は高野新笠です。父方は天智天皇につながる皇統で、桓武天皇の皇子からは平城天皇・嵯峨天皇・淳和天皇が即位しました。主な家族関係は次のとおりです。
| 関係 | 人物名・説明 |
|---|---|
| 父 | 光仁天皇。桓武天皇に皇位を譲った第49代天皇 |
| 母 | 高野新笠。百済系の氏族とされる和氏の出身 |
| 妻・皇后 | 藤原乙牟漏。平城天皇と嵯峨天皇の母 |
| 主な子 | 平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇、葛原親王。淳和天皇の母は藤原旅子 |
| 同母の弟 | 早良親王。桓武天皇の即位後に皇太子となった |
母の高野新笠について、『続日本紀』は百済の武寧王の子・純陀太子の後裔と記しています。百済は古代の朝鮮半島にあった国で、母方の系譜からは海を越えた古代の交流がうかがえます。桓武天皇は百済王氏との交流も深く、その一族が暮らす交野へたびたび赴きました。
弟の早良親王は、785年の藤原種継暗殺事件に関係した疑いで皇太子を廃され、配流の途上で亡くなりました。その後、災いが続くと早良親王の祟りが恐れられ、800年には崇道天皇の名が贈られます。皇位を継ぐはずだった弟は、亡くなった後にその霊を鎮める祈りの対象となりました。
桓武天皇の皇統は、現在の皇室へと続いています。また、子孫の皇族が「平」の姓を与えられて臣下となった系統は、桓武平氏と呼ばれます。そのうち関東へ広がった系統では、皇子の葛原親王の孫にあたる高望王を祖とし、千葉氏などもこの流れに位置づけられています。現在の家々へのつながりは、それぞれの家に伝わる系図や、親子関係・暮らした土地の記録を手がかりにたどれます。
桓武天皇が行ったことと人物像
桓武天皇の治世を代表する事業は、都を長岡京・平安京へ移したことと、東北への軍事遠征です。地方政治や兵役の仕組みを見直し、新しい仏教の学びを支えたことも知られています。
長岡京から平安京へ都を移す
784年、桓武天皇は平城京から長岡京へ都を移しました。長岡の地は川と陸路を利用しやすく、各地から人や物を集めるのに適していました。政治の拠点を移し、天皇を中心に国の仕組みを立て直す狙いもありました。
長岡京では、造営を担った藤原種継の暗殺に加え、洪水や疫病が相次ぎました。水害で壊れた施設の修復や、東北への遠征にも人手や物資が必要となり、都の建設を進める負担が膨らみました。都市計画にも変更が重なり、整備は難航します。
794年には、現在の京都市街のもととなる平安京へ遷都しました。この再度の遷都には、水害や都の立地、政治上の事情などが重なっていました。当時は、早良親王の祟りへの恐れも広がっていました。
政治の立て直しと、桓武天皇の素顔
地方政治では、勘解由使という役所を設け、地方を治める国司が交代するときの引き継ぎを監督させました。792年には、東北や九州などの一部地域を除いて従来の兵士制度を廃し、郡司など地方の役人の子弟らから武芸に優れた者を選ぶ健児制へ改めています。農民を広く兵士として徴発する仕組みを見直す改革でした。
東北では、朝廷の支配に抵抗する蝦夷に対し、坂上田村麻呂らを派遣して遠征を進めました。都の造営と遠征は、動員される民の暮らしを圧迫しました。晩年には二つの事業をやめるべきだという意見を採用し、方針を転換します。
宗教面では最澄を支え、804年の唐への留学を認めました。806年には、国家が毎年一定数の出家を認める制度に、天台宗の枠として二人が加えられます。これにより、最澄が唐から持ち帰った天台の教えが国家公認の宗派となりました。
こうした改革を進めた桓武天皇は、どのような人だったのでしょう。『日本後紀』は、親孝行で政治に心を尽くした天皇と評し、父の光仁天皇を亡くした後は、年を越えても喪服を脱ごうとしなかったと伝えています。鷹狩を好む活動的な一面もあり、交野へ繰り返し狩りに出かけました。
桓武天皇の神話・伝承
『日本後紀』には、晩年の805年、桓武天皇が臣下に政治のあり方を議論させた出来事が記されています。「徳政相論」と呼ばれるこの議論で、天皇は民を苦しめていた東北への遠征と平安京の造営を止める意見を採用しました。
都を築いた天皇が、止めると決めた日
『日本後紀』の徳政相論をもとに、情景や会話を添えて物語にしました。
袖の中で重ねた指が、冷えていた。藤原緒嗣は息を整え、顔を上げた。見上げた先には桓武天皇が座り、そのそばで菅野真道が言葉を待っている。
この日、二人は天皇の命で、国の政治について論じることになっていた。いま口にすべきことは決まっている。それでも、天皇が力を注いできた事業について話そうとすると、喉が狭くなる。
「民を苦しめているのは、東北での戦と、都を造る仕事です」
緒嗣は一度言葉を切った。沈黙の中で、衣擦れがひどく近く聞こえる。「その二つをお止めになれば、民は暮らしを立て直せます」
真道の顔が上がった。すぐに異議が返り、緒嗣は膝の上の指に力を込めた。相手が退く気配はなく、自分も今の言葉を取り消すことはできない。
天皇は二人のやり取りを聞いていた。都を築き、遠くまで兵を送り、国を整えてきた。その仕事を止めるという声が、目の前で響いている。
緒嗣は返答を待った。視線を落とせば、言い切ったはずの言葉まで弱くなりそうだった。長い間のあと、天皇が口を開いた。
「緒嗣の言うとおりにする」
声が耳に届いても、緒嗣はすぐには肩の力を抜けなかった。東北への遠征と、都の造営を止める。その決定を確かめるように頭を下げると、張りつめていた息がようやく静かに流れた。
都を造らせてきた天皇が、この日は止めると決めた。顔を伏せた緒嗣の前に、床の木目がまっすぐ延びていた。
桓武天皇ゆかりの神社・祀られている神社
桓武天皇を祀る神社には、京都の歴史をたたえる神社、一族の祖先として敬う神社、土地に伝わる由緒を受け継ぐ神社があります。京都の大きな祭りから村の祭礼まで、各地で異なる形の信仰が続いています。
平安神宮|京都府京都市左京区
平安神宮は、桓武天皇を祭神として1895年に創建され、1940年に孝明天皇が合祀されました。京都の始まりを担った天皇と、幕末の京都に生きた天皇の二柱を祀っています。朱塗りの社殿は、平安京の朝廷の儀式が行われた朝堂院の姿をもとにしています。
10月22日の時代祭では、二柱の御霊を迎えて京都の町を巡る神幸列に、各時代の装束をまとった行列がお供します。衣装や道具には京都の伝統工芸の技が用いられ、市民が奉仕して歴史と文化を伝えています。3月15日には、創建の日を記念する御鎮座記念祭も行われます。
橿原神宮|茨城県ひたちなか市
茨城県ひたちなか市富士ノ上の橿原神宮は、神武天皇・桓武天皇・崇道天皇を祀る神社です。社伝では927年に桓武天皇と崇道天皇を合祀し、柏原大明神と呼ばれるようになったと伝えています。
桓武天皇を祖先に持つとする地域の平氏一族から守り神として敬われ、その後は湊村の鎮守となりました。神武天皇の東征伝承や桓武天皇の時代の蝦夷征討にちなみ、厄除の神としても信仰されています。奈良県橿原市の橿原神宮とは別の、那珂湊の町に伝わる神社です。
桓武伊和神社|兵庫県宍粟市
兵庫県宍粟市山崎町中野の桓武伊和神社は、桓武天皇を主祭神としています。社地の山上には天皇の廟所と伝わる場所があり、天皇とこの土地との縁から祀られるようになったと語られています。京都の柏原陵とは別に、この地域で受け継がれてきた伝承です。
祭りでは、祭礼を担う当屋を次へ引き継ぐ「当渡し」が行われます。その後、子供神輿が御旅所から神社へ練り歩いて戻り、保存会による獅子舞や餅撒きが行われます。地域の人々が役目を引き継ぎながら、天皇を祀る祭りを続けています。