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後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は何の神様?承久の乱・和歌と祀られる理由 | 神様図鑑

後鳥羽天皇ゴトバテンノウは、学問やスポーツの神として敬われる、平安時代末期から鎌倉時代前期の天皇です。承久の乱で敗れて隠岐へ流された後も和歌に取り組み、死後は御霊を慰め、文化を育てた功績をたたえるために祀られました。後鳥羽上皇ゴトバジョウコウとの呼び名の違いから、生涯と和歌、現在の信仰まで紹介します。

目次

後鳥羽天皇ゴトバテンノウは何の神様?

後鳥羽天皇ゴトバテンノウは、学問・スポーツの守り神として信仰される第82代天皇です。神として祀られる背景には、配流先で亡くなった御霊を慰める祈りと、和歌や武芸に優れた人物への尊敬があります。

水無瀬での祭祀は、本人が残した願いから始まりました。隠岐で最期を迎える直前、後鳥羽天皇ゴトバテンノウは水無瀬を守る家臣たちへ、死後の自分を弔ってほしいという文書を残します。その遺志を受け、離宮跡には天皇の肖像を安置する御影堂が建てられ、のちの水無瀬神宮へつながりました。

鎌倉では、たたりへの恐れから御霊を鎮める社が建てられました。隠岐では墓所を守る営みが続き、近代には和歌をはじめとする文化上の功績をたたえる神社も創建されています。本人の遺志を継ぐ供養、御霊を鎮める祈り、功績への敬意が、それぞれの土地で祭祀を支えてきました。

歌を詠むことにも体を動かすことにも熱心だった天皇の姿は、学びやスポーツに励む人たちの祈りにもつながっています。

後鳥羽天皇ゴトバテンノウの別名と後鳥羽上皇ゴトバジョウコウとの違い

後鳥羽天皇ゴトバテンノウと後鳥羽上皇ゴトバジョウコウは同じ人物です。1198年に皇位を譲り、その後は退位した天皇を意味する「上皇」の立場で政治を行いました。「後鳥羽天皇ゴトバテンノウ」は生涯全体や神社の祭神名を示すときにも使われ、「後鳥羽上皇ゴトバジョウコウ」は主に退位後の活動を説明するときの呼び方です。

区分名称・意味
天皇としての名・祭神名後鳥羽天皇ゴトバテンノウ。神社の祭神名にも使われる呼び名です。
個人の名前尊成タカヒラ。即位前は尊成親王タカヒラシンノウと呼ばれました。
退位後や歌人としての呼び名後鳥羽上皇ゴトバジョウコウ、後鳥羽院ゴトバイン。歌集や百人一首では後鳥羽院ゴトバインの名が用いられます。
死後の呼称など顕徳院ケントクイン、隠岐院オキノイン。死後は初め顕徳院ケントクインと呼ばれ、1242年に後鳥羽院ゴトバインへ改められました。隠岐院オキノインは配流先にちなむ呼称です。

「後鳥羽ゴトバ」は死後に定められた呼び名です。名前のもとになった鳥羽天皇トバテンノウは曾祖父にあたり、別の時代に生きた天皇です。

後鳥羽天皇ゴトバテンノウの御神格・ご利益・ご神徳

後鳥羽天皇ゴトバテンノウを祀る神社では、学問やスポーツの上達、学業成就などが祈られています。水無瀬神宮には安産信仰もあり、それぞれの神社の由緒に応じた願いが寄せられます。

後鳥羽天皇ゴトバテンノウの御神格

項目内容
御神格学問・スポーツの神(水無瀬神宮)、御霊を慰め功績をたたえて祀られる天皇

後鳥羽天皇ゴトバテンノウは自ら和歌を詠み、歌人を集めて歌集の編纂も進めました。弓、相撲、水泳、蹴鞠などにも親しんだと伝えられます。水無瀬神宮の学問・スポーツの信仰には、このような文武にわたる才能が背景にあります。

後鳥羽天皇ゴトバテンノウのご利益・ご神徳

項目内容
ご利益入試合格・安産など(水無瀬神宮の祈願)、学問成就・交通安全・所願成就(隠岐神社)
ご神徳学問とスポーツを守る働き(水無瀬神宮)。隠岐神社では学問成就・交通安全・所願成就を御神徳として案内しています。

水無瀬神宮の安産信仰には、1347年に足利直義アシカガタダヨシが夫人の安産を祈り、男児を授かったという由緒があります。現在も安産祈願を受け付け、腹帯を授与しています。入試合格や家内安全なども含め、三天皇を祀る神宮全体で受け付けている祈願です。

隠岐神社では、学問成就に加え、交通安全や所願成就も御神徳として伝えています。歌人として敬われる天皇に、日々の学びや暮らしの無事を願う信仰が続いています。

後鳥羽天皇ゴトバテンノウの家系図|父母・兄弟・妻と子

後鳥羽天皇ゴトバテンノウは、高倉天皇タカクラテンノウと藤原殖子フジワラノショクシの間に生まれた第四皇子です。子の土御門天皇ツチミカドテンノウと順徳天皇ジュントクテンノウが相次いで皇位を継ぎ、その在位中も父が院政を行いました。異母兄は、源平の戦いで知られる安徳天皇です。主な家族関係を表にまとめます。

関係人物名とつながり
父高倉天皇タカクラテンノウ。第80代天皇です。
母藤原殖子フジワラノショクシ。院号は七条院シチジョウインで、守貞親王モリサダシンノウの母でもあります。
兄安徳天皇アントクテンノウは異母兄、守貞親王モリサダシンノウは同母兄です。守貞親王モリサダシンノウは後高倉院ゴタカクラインとも呼ばれます。
配偶者(中宮)藤原任子フジワラノジンシ。九条兼実クジョウカネザネの娘で、宜秋門院ギシュウモンインの院号を持ちます。
配偶者(後宮)源在子ミナモトノザイシは土御門天皇ツチミカドテンノウの母で、院号は承明門院ショウメイモンイン。藤原重子フジワラノジュウシは順徳天皇ジュントクテンノウの母で、院号は修明門院シュメイモンインです。
子土御門天皇ツチミカドテンノウ、順徳天皇ジュントクテンノウ、昇子内親王ショウシナイシンノウなど。昇子内親王ショウシナイシンノウは藤原任子フジワラノジンシの娘で、春華門院シュンカモンインと呼ばれました。

土御門天皇ツチミカドテンノウと順徳天皇ジュントクテンノウは、母の異なる兄弟です。二人は父とともに、水無瀬神宮や鎌倉の今宮に祀られています。

孫には、順徳天皇ジュントクテンノウの子の仲恭天皇チュウキョウテンノウと、土御門天皇ツチミカドテンノウの子の後嵯峨天皇ゴサガテンノウがいます。承久の乱後、仲恭天皇チュウキョウテンノウは皇位を退くことになりましたが、1242年には後嵯峨天皇ゴサガテンノウが即位し、後鳥羽天皇ゴトバテンノウの血筋から再び天皇が立ちました。

後鳥羽天皇ゴトバテンノウは何をした?平安末期から鎌倉時代の生涯

後鳥羽天皇ゴトバテンノウは1180年に生まれ、1239年に亡くなりました。平安時代末期の源平の争乱から、鎌倉幕府が力を強める時代に生きた人物です。上皇として朝廷の政治を主導し、『新古今和歌集』の編纂を進めたこと、承久の乱で北条義時を討とうとしたことで知られます。政治と文化の両方に力を注いだ生涯をたどってみましょう。

数え4歳での即位と、退位後に始めた院政

1183年、平氏が安徳天皇アントクテンノウと三種の神器を伴って都を離れると、京都に残っていた尊成親王タカヒラシンノウが数え4歳で皇位に就きました。祖父の後白河法皇ゴシラカワホウオウの意向による即位で、皇位のしるしとされた神器を受け継がないままの出発でした。

1198年には子の土御門天皇ツチミカドテンノウに譲位し、上皇として院政を始めます。院政とは、退位した天皇が政治の中心に立つ仕組みです。後鳥羽上皇ゴトバジョウコウは土御門天皇ツチミカドテンノウ、順徳天皇ジュントクテンノウ、仲恭天皇チュウキョウテンノウの三代にわたって院政を行い、水無瀬などに離宮を営みながら、政治と文化の活動を進めました。

承久の乱で北条義時ホウジョウヨシトキと対立

後鳥羽上皇ゴトバジョウコウは三代将軍・源実朝ミナモトノサネトモと親しい関係を築いていました。1219年に実朝サネトモが暗殺されると、後継の将軍をめぐる交渉が難航します。土地の支配をめぐる問題も重なり、朝廷と幕府の対立が深まりました。

1221年、後鳥羽上皇ゴトバジョウコウは幕府の執権・北条義時ホウジョウヨシトキを討つ命令を出しました。これが承久の乱です。上皇側には近臣や京都周辺の武士が加わりましたが、鎌倉では北条政子ホウジョウマサコが、亡き源頼朝ミナモトノヨリトモから受けた恩を御家人たちに説き、結束を呼びかけました。幕府を支える武士たちが集まり、北条泰時ホウジョウヤストキらが軍を率いて京都へ進みました。

幕府軍は宇治・瀬田の防衛線を突破し、上皇側は敗れます。乱の後、後鳥羽上皇ゴトバジョウコウは出家して隠岐へ配流され、京都では六波羅探題が朝廷の監視や西国の統治を担うようになりました。幕府が皇位継承にも強く関わるようになったことが、この戦いの大きな結果です。

隠岐での暮らしと死去

配流先は現在の島根県海士町にあたる中ノ島で、源福寺が住まいになったと伝わります。島で暮らしたのは1221年から1239年までの約18年、年をまたいで数えると足かけ19年です。その間も後鳥羽天皇ゴトバテンノウは和歌を詠み、都の歌人との交流や歌集の手直しを続けました。

1239年の旧暦2月22日、帰京を果たさないまま、数え60歳で亡くなりました。最期の病状は詳しく伝わりませんが、死の直前には、自分の死後を弔うよう求める置文を残しています。その願いは海を越えて水無瀬へ届き、のちの神社の始まりとなりました。

遺骨は京都へも運ばれ、大原に葬られました。京都市左京区には大原陵があり、隠岐には火葬の地を伝える御火葬塚が残っています。御火葬塚は隠岐神社の近くにあり、島での最期を伝える場所です。

後鳥羽天皇ゴトバテンノウの和歌と刀剣

後鳥羽天皇ゴトバテンノウは、和歌の制作や『新古今和歌集』の編纂に深く関わりました。刀剣では、御番鍛冶や菊御作にまつわる伝承が残っています。

『新古今和歌集』の編纂と隠岐での推敲

1201年、後鳥羽院ゴトバインは藤原定家フジワラノテイカや藤原家隆フジワラノイエタカらに『新古今和歌集』の編纂を命じました。勅撰和歌集とは、天皇や上皇の命によって編まれる歌集です。後鳥羽院ゴトバイン自身も歌の選定に関わり、1205年の完成を祝う催しの後も、歌を加えたり外したりする作業を続けました。

後鳥羽院ゴトバインのもとでは、30人の歌人による合計3,000首を組み合わせた『千五百番歌合』も作られました。集めた歌を左右に一首ずつ組み、優劣を論じる紙上の歌合です。ここで選ばれた歌も『新古今和歌集』へ取り入れられています。

隠岐に移ってからも精選は続き、その成果は「隠岐本」と呼ばれます。晩年には、時代を異にする100人の歌人を選んで歌を組み合わせた『時代不同歌合』も編みました。政治の場を失った後も、過去の和歌を読み、自分の基準で選ぶ仕事に取り組んでいたのです。

百人一首「人もをし」の意味

百人一首の99番に選ばれているのが、後鳥羽院ゴトバインの次の歌です。『続後撰和歌集』にも収められています。

人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は

世の中を思いどおりにならないものと感じ、思い悩む私には、人がいとおしく思えたり、恨めしく思えたりする、という意味です。「をし」には相手を大切に思う気持ちがあり、人への愛情と恨みが同じ一首の中に置かれています。

この歌は『後鳥羽院ゴトバイン御集』の「建暦二年五人百首」に含まれ、1212年に詠まれました。承久の乱より9年前、都で院政を行っていたころの歌です。

御番鍛冶と「菊御作」

後鳥羽上皇ゴトバジョウコウは、山城・備前・備中などの名高い刀工を召し、月ごとの当番で刀を作らせたと伝えられます。こうした刀工が「御番鍛冶」です。上皇自身も焼き入れに関わったという伝承があり、手掛けたとされる刀に菊の紋を刻んだものが「菊御作」と呼ばれています。

京都国立博物館に伝わる菊御作の太刀では、刀身の根元に近い部分に菊紋が刻まれています。御番鍛冶の伝承は鎌倉時代半ば以降、武士や刀工の間で広まりました。隠岐にも刀工が渡って刀を作ったという伝説が残っています。

後鳥羽天皇ゴトバテンノウの伝承|水無瀬へ託した最期の願い

水無瀬で後鳥羽天皇ゴトバテンノウを祀るきっかけとなったのが、隠岐で最期を迎える直前に残した「御手印置文」です。長年仕えた水無瀬親成ミナセチカナリに水無瀬・井内の所領を受け継がせ、死後の供養を託した、遺言にあたる文書が今も伝わっています。

御手印置文の物語|海の向こうへ残す朱の手形

「御手印置文」の内容と水無瀬神宮の由緒をもとに、情景や会話を添えて物語にしました。

筆先が紙に触れる手前で止まった。後鳥羽天皇ゴトバテンノウはゆっくりと息をつき、机の上の余白を見つめる。書かなければならないのに、最初の一文字が出てこなかった。

隠岐へ来てから、いくつもの年が過ぎた。都へ戻る日を待つ間にも、歌を選び、言葉を削り、また書き足してきた。その筆で今日は、自分がいなくなった後のことを書く。

水無瀬、と心の中で呼んでみる。月を映す水面や、花の下で歌を交わした人々の顔が浮かんだ。あの場所で、もう一度同じ月を見たかった。

後鳥羽天皇ゴトバテンノウは紙の端を押さえた。水無瀬を守ってきた信成ノブシゲと親成チカナリのことを、書き残しておかなければならない。長く仕えてくれた父子に報い、その先の暮らしも支えたい。今の自分にできることを、一つずつ言葉にしておきたかった。

水無瀬と井内の土地は、親成に確かに受け継いでもらいたい。筆を下ろすと、漢字の間を仮名がつないでいった。相手に語りかけるように書くうち、胸につかえていた、もう一つの願いが言葉になった。

「私が死んだ後も、どうか弔ってほしい」

声にすると、自分がもうここにいない時のことが、急にはっきりと感じられた。筆を握り直し、その願いも書きつける。これから先のことを頼める相手がいるのだと思うと、止まっていた手がまた動いた。

書き終えた文を前に、朱を手につけた。掌を紙へ押し当て、ゆっくりと離す。赤く残った手形を確かめ、もう片方の手も押した。

この土地を受け継いでほしい。この願いを忘れずにいてほしい。文字に重なる二つの手形を、後鳥羽天皇ゴトバテンノウはしばらく見つめた。

手を膝に戻すと、部屋は静かになった。海を越えて水無瀬へ帰ってゆくのは、この紙だ。自分の手で託した証が乾くまで、後鳥羽天皇ゴトバテンノウはそばを離れなかった。

⇒【九州国立博物館】「御手印置文」の解説はこちら

置文が書かれたのは、1239年の旧暦2月9日です。その13日後に後鳥羽天皇ゴトバテンノウは亡くなり、文書は水無瀬に伝えられました。現在は「後鳥羽天皇ゴトバテンノウ宸翰御手印置文」として国宝に指定されています。

後鳥羽天皇ゴトバテンノウゆかりの神社・祀られている神社

後鳥羽天皇ゴトバテンノウを祀る神社は、愛した離宮の地、配流先、来訪伝承が残る土地などにあります。本人の遺志を受け継ぐ祭祀と、後世の人々が御霊や功績を敬う祭祀が、それぞれの場所に残っています。

水無瀬神宮|大阪府島本町

水無瀬神宮は、水無瀬離宮の跡に鎮座し、後鳥羽天皇ゴトバテンノウ・土御門天皇ツチミカドテンノウ・順徳天皇ジュントクテンノウを祀る神社です。後鳥羽天皇ゴトバテンノウの遺志を受けた御影堂を起源とし、明治期に二人の天皇が合祀され、1939年に水無瀬神宮となりました。

国宝の肖像と御手印置文を伝え、歌を愛した天皇とこの土地とのつながりを今に残しています。年間祭事では4月4日に後鳥羽天皇ゴトバテンノウ祭、12月7日に例祭が行われます。学問・スポーツや安産の祈願に加え、天皇を偲ぶ祭祀が続く社です。

⇒ 水無瀬神宮の公式サイトはこちら

⇒水無瀬神宮公式サイトはこちら

隠岐神社|島根県海士町

隠岐神社は、後鳥羽天皇ゴトバテンノウを主祭神とし、崩御700年にあたる1939年に創建されました。配流先でも和歌を詠み続けた天皇をたたえる神社です。隠岐では、後鳥羽天皇ゴトバテンノウは「ごとばんさん」の名でも親しまれています。

春秋の祭りでは、「我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心してふけ」の歌に曲と舞を付けた承久楽が奉納されます。例祭は4月14日で、神輿の渡御や式年の祭りも行われてきました。近くには住まいだった源福寺の跡や御火葬塚があり、神社の祭祀と島での生涯の跡を訪ねられます。

⇒【島根県神社庁】隠岐神社の紹介はこちら

後鳥羽神社|滋賀県長浜市

長浜市名越町の後鳥羽神社は、後鳥羽天皇ゴトバテンノウを祭神とする社です。社伝では1199年に上皇が名超寺の僧を頼ってひそかに訪れ、自分の姿を木像に刻んで残したと伝えます。

その像は寺の宝物として守られ、1878年に明治天皇メイジテンノウの巡幸に際して大津で天覧に供されました。その後、後鳥羽殿を再建して像を安置し、後鳥羽神社と称する許可を得たとされています。現在の祭礼日は5月3日で、肖像を守り継ぐ信仰が伝えられています。

⇒【滋賀県神社庁】後鳥羽神社の紹介はこちら

鎌倉で三天皇を祀る今宮

京都から離れた鎌倉にも後鳥羽天皇ゴトバテンノウを祀る社があります。鶴岡八幡宮の末社・今宮は、1247年に御霊を鎮めるために創建され、現在は土御門天皇ツチミカドテンノウ・順徳天皇ジュントクテンノウとともに祀られています。

神社名住所
今宮(鶴岡八幡宮末社・公式サイト)神奈川県鎌倉市
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