崇徳天皇は、讃岐で終えた生涯を悼み、御霊を慰めて国や人々の守護を願う神として祀られています。悪縁を切り、良縁を結ぶ神としても信仰されています。怨霊の伝承で知られる一方、和歌を愛し、人の苦しみに心を寄せる歌を残しました。
崇徳天皇は何の神様?
崇徳天皇は、平安時代末期の第75代天皇で、死後、その御霊を慰めるために神として祀られました。保元の乱に敗れて讃岐へ流され、都へ帰ることなく亡くなった生涯が、祭祀の大きな背景にあります。
当時は、争いに敗れた人や無念を抱いて亡くなった人の霊が、災いをもたらすと考えられていました。その霊を丁重に祀って怒りを鎮め、世の平穏を願う信仰を御霊信仰といいます。崇徳天皇もこうした畏れの対象となり、死後には「崇徳」の追号が贈られ、供養や社の建立が行われました。
現在は、和歌などの功績を偲び、暮らしを守る加護を願う祭祀も受け継がれています。京都や香川の神社では、国の安泰や悪縁切り、良縁など、それぞれの由緒に結び付いた祈りが捧げられています。
崇徳天皇の別名
崇徳天皇の生前の名は顕仁です。「崇徳」は、死後の1177年に贈られた追号で、退位後の姿を語るときには崇徳上皇、歌人としては『百人一首』にも記される崇徳院の名が広く使われています。
| 区分 | 別名・呼称 |
|---|---|
| 生前の名・退位後の呼称 | 顕仁、新院 |
| 配流先にちなむ呼称 | 讃岐院 |
| 追号を用いた呼称 | 崇徳院、崇徳上皇 |
「新院」は、すでに上皇となっていた鳥羽天皇に対し、新しく退位した上皇を指す呼び名でした。「讃岐院」は、流された国の名による呼称で、「崇徳」の追号が贈られる前に用いられていました。
崇徳天皇の御神格・ご利益・ご神徳
崇徳天皇への信仰は、無念の御霊を慰め、守護を仰ぐ祭祀を土台としています。安井金比羅宮では悪縁切りと良縁、白峯神宮では国難への加護や人々の守護という形で、その神徳が語られています。
崇徳天皇の御神格
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 御神格 | 御霊として祀られる天皇神、悪縁を断ち良縁を守る神、国の安泰を願う守護神 |
天皇神とは、歴代の天皇を神として祀るときの呼び方です。崇徳天皇の場合、霊を慰めることに加え、文化面の功績を偲んで敬う祭祀が行われています。白峯神宮では、和歌や管絃に優れた天皇の功績と、無念の生涯への追悼を、崇敬の理由として伝えています。
崇徳天皇のご利益・ご神徳
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ご利益 | 悪縁切り、良縁祈願、国の安泰 |
| ご神徳 | 人を苦しめる縁を断つ働き、良い結び付きを守る加護、国と人々の守護 |
安井金比羅宮の悪縁切りは、崇徳天皇が讃岐の金刀比羅宮で欲を断って祈ったという伝承に由来します。人間関係に加え、酒や賭け事など、断ちたい習慣から離れる願いも含まれます。良縁を守り、より強く結ぶという信仰も併せて受け継がれています。
国の安泰を願う信仰には、幕末の混乱の中、孝明天皇が崇徳天皇の御霊を京都へ迎え、国難への加護を祈ろうとした経緯があります。その願いを受け継いだ白峯神宮では、国と人々を守る神として崇敬されています。
崇徳天皇の家系図・父母や子どもとの関係
崇徳天皇は、鳥羽天皇の第一皇子として生まれました。母は藤原璋子で、待賢門院とも呼ばれます。中宮には藤原忠通の娘・藤原聖子を迎えました。主な家族を挙げると、次のようになります。
| 関係 | 人物・説明 |
|---|---|
| 父 | 鳥羽天皇。退位後に院政を行いました |
| 母 | 藤原璋子(待賢門院) |
| 配偶者(中宮) | 藤原聖子(皇嘉門院)。藤原忠通の娘 |
| 子 | 重仁親王、元性法印 |
| 同母弟 | 後白河天皇。父母を同じくする弟 |
| 異母弟 | 近衛天皇。父は鳥羽天皇、母は藤原得子(美福門院) |
崇徳天皇は重仁親王への皇位継承を望みましたが、近衛天皇の死後に即位したのは後白河天皇でした。重仁親王は保元の乱後に出家し、父に先立って1162年に亡くなっています。
父については、鎌倉時代の説話集『古事談』に、実は白河法皇の子だったという話が載っています。白河法皇は鳥羽天皇の祖父にあたるため、この説では崇徳天皇が鳥羽天皇の叔父にあたります。鳥羽天皇が「叔父子」と呼んだという逸話も、この話に由来します。真偽は定かではありませんが、宮内庁の系譜では鳥羽天皇の子とされています。
子孫については、配流先の讃岐にもう一つの家族の伝承が残っています。身の回りの世話をした綾の局との間に顕末という皇子が生まれ、綾家の跡継ぎになったという話で、坂出市には皇子の墓と伝わる菊塚があります。その後の系譜や、現在まで血筋が続いているかは定かではありません。
崇徳天皇の生涯と和歌に残る姿
崇徳天皇は1119年に生まれ、幼くして皇位に就きました。退位後の政治的な対立と保元の乱が生涯を大きく変えましたが、宮廷では和歌の催しを主導し、歌集の編纂にも関わっています。
皇位継承と保元の乱
1123年、崇徳天皇は数え5歳で即位しました。当初は白河法皇、その死後は鳥羽上皇が政治を動かす院政の時代でした。1141年には異母弟の近衛天皇へ皇位を譲ります。
近衛天皇が1155年に亡くなると、同母弟の後白河天皇が即位しました。翌1156年に鳥羽法皇が亡くなり、皇位継承をめぐる対立に、藤原氏の有力者同士や武士たちの争いが重なって、保元の乱が起こります。
崇徳上皇方は藤原頼長らと結び、後白河天皇方と戦いましたが敗れました。崇徳上皇は讃岐へ配流され、その地で残りの生涯を送ることになります。現在の坂出市には、滞在先と伝わる雲井御所跡や木ノ丸殿ゆかりの地が残っています。
和歌に残る、人の苦しみへのまなざし
怨霊としての激しい姿が語り継がれる一方、残された和歌には、人の苦しみを思いやる言葉があります。『千載和歌集』には、鵜を使って魚を捕る鵜飼を題にした歌が収められています。
「早瀬川 みをさかのぼる 鵜飼舟 まづこの世にも いかがくるしき」
急流をさかのぼる鵜飼舟を詠み、漁に生きる人の苦しさを思う歌です。魚を捕る行為を殺生と考える当時の仏教観を背景に、来世の報いに加え、今この世を生きることもどれほど苦しいだろうと問いかけています。
また、崇徳天皇は『久安百首』という百首歌の企画を進め、『詞花和歌集』の編纂を藤原顕輔に命じました。『百人一首』77番の「瀬をはやみ」で始まる歌は、岩に分かれた川の流れがまた合わさるように、離れても最後には会いたいという恋心を詠んでいます。
死去の時期・死因と白峯陵
崇徳天皇は、1164年(長寛2年)旧暦8月26日に讃岐で亡くなりました。満45歳、当時の数え方では46歳です。1156年の配流から8年が過ぎても、帰京はかないませんでした。
死因は、はっきり分かっていません。江戸時代の地誌『讃州府誌』には暗殺されたという伝承も残されています。
御陵は香川県坂出市青海町の白峯陵です。近くの白峯寺には崇徳天皇の御廟である頓証寺殿があり、神社での奉斎とともに、寺院での供養も受け継がれています。
崇徳天皇の祟りをめぐる伝承
崇徳天皇は、後世の『保元物語』などで、都に拒まれた思いを抱く怨霊として描かれました。写経を送り返されたという話は、その怒りが生まれる場面として知られています。
都へ届かなかった祈り
『保元物語』巻之三「新院御経沈めの事 附 崩御の事」をもとに、情景や会話を添えて物語にしました。
戸口の向こうを、風が通り過ぎていく。崇徳上皇は顔を上げたが、誰も現れなかった。食事が運ばれてくる時刻を過ぎれば、今日もまた、人の声が遠くなる。
傍らでは、都から従ってきた女房たちがうつむいていた。その小さな背を見るたびに、上皇は自分の嘆きを口にするのをためらった。帰りたいのは、皆同じなのだ。
上皇は筆を取り、経文の続きを書いた。一字を書き終えては、次の一字へ進む。心が都へ走り出しそうになるたび、墨の黒さへ目を戻した。
三年ほどをかけ、五部の大乗経を書き上げた。争った過去を悔い、来世の救いを願って重ねた文字だった。せめてこの経だけは、仏の前へ納めたい。
八幡山でも、高野山でもいい。もし許されるなら、父の眠る鳥羽の安楽寿院へ。上皇は仁和寺の御室に願いを託し、経を都へ送り出した。
待つ間、戸口に目をやることが増えた。自分の足では越えられない海を、あの文字は渡っていった。都の誰かが読んでくれるかもしれないという思いが、胸の奥にかすかに残っていた。
戻ってきたのは、納経を認める知らせではなかった。自分の書いた経が、そのまま目の前に置かれた。重い咎を受けた身ゆえ、筆跡さえ都の近くには置けないという返事だった。
上皇は巻物に手を伸ばした。覚えのある紙の手触りに、指が止まる。争ったことを悔いて書いた、その祈りまで返されるのか。
「この文字さえ、受け入れぬのか」
上皇は経巻を握りしめた。救いを願って三年も書き続けた文字を、都は遠ざけようとする。うつむいたまま吐いた息が、かすかに震えた。
「ならば、この経を魔道へ捧げよう。魔縁となって、この恨みを晴らそう」
顔を上げたとき、もう許しを願う言葉は出なかった。目の前にあるのは、自分の筆で埋めた経巻だ。仏の前へ納めようとしたそれを、今度は恨みを託すために開いた。
その言葉は都へ伝わり、様子を見るため康頼が遣わされた。目の前にいた上皇は、すすけた柿色の衣に長い頭巾を巻いていた。経巻の奥に誓いの文を書き付ける手を、康頼は見つめた。
経は深い水底へ沈められた。かつては仏の前へ届けようとした文字が、光の届かぬところへ消えていく。上皇はいつまでも、経の沈んだ水面を見つめていた。
怨霊として畏れられ、御霊として祀られるまで
崇徳天皇の死後、都の災いや政治の混乱は、その祟りに結び付けて語られました。『保元物語』には、平清盛が後白河法皇を幽閉した政変などを祟りと見る語りもあります。災いの原因を怨霊に求めた、当時の人々の畏れを伝える話です。
朝廷は1177年に「崇徳」の追号を贈り、霊を慰める祭祀を行いました。その後も寺院での供養や神社での奉斎が続き、近代には白峯神宮が創建されました。
崇徳天皇を知る本・物語
生涯と怨霊伝承のつながりを知りたい人には、山田雄司『怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院』(中公新書)があります。人々がなぜ霊を畏れ、どのように鎮めようとしたかを扱う本です。さらに詳しい研究書には、同著者の『崇徳院怨霊の研究』(思文閣出版)があります。
古典では、保元の乱とその後を描く『保元物語』があり、先ほどの写経の話も収められています。江戸時代の上田秋成『雨月物語』では、「白峯」に崇徳院の亡霊が登場します。西行と亡霊の対話を描く怪異小説で、物語の中で天皇の怨念が語られます。
崇徳天皇ゆかりの神社・祀られている神社
崇徳天皇を祀る神社は、配流先だった香川と、朝廷や和歌の活動の舞台だった京都に残っています。御霊を慰める由緒、金毘羅信仰との結び付き、悪縁切りの祈願など、土地ごとに異なる形で信仰が受け継がれています。
白峯神宮(京都府京都市上京区)
白峯神宮は、崇徳天皇と淳仁天皇を祀る神社です。孝明天皇が志した崇徳天皇の神霊を京都へ迎える計画を、明治天皇が引き継ぎ、1868年に創建しました。社地には、和歌や蹴鞠で知られた飛鳥井家の邸宅跡が選ばれています。
9月21日には崇徳天皇祭にあたる秋季例大祭が行われ、これに合わせた薪能の奉納も続いています。境内はスポーツの祈願でも知られますが、その信仰の中心は、飛鳥井家から祭祀を受け継いだ地主社の精大明神です。崇徳天皇を祀る本殿と、蹴鞠の守護神を祀る地主社が、同じ境内にあります。
安井金比羅宮(京都府京都市東山区)
安井金比羅宮は崇徳天皇を主祭神とし、大物主神と源頼政も祀っています。崇徳天皇がこの地の藤を好み、1146年に堂塔を修造したという由緒があります。死後の1177年には、後白河法皇の命で光明院観勝寺が建立されたと伝えられています。
現在は、絵馬の形をした大きな石「縁切り縁結び碑」での祈願で知られます。願いを書いた形代という札を持ち、石の穴を表から裏、裏から表の順にくぐり、最後に札を貼るのが祈願の作法です。良縁で結ばれた夫婦や恋人同士にも、その縁をさらに深めるご利益があると案内されています。
金刀比羅宮(香川県仲多度郡琴平町)
金刀比羅宮の御本宮では、大物主神とともに、相殿に崇徳天皇を祀っています。神社の由緒によれば、崇徳天皇の死の翌年にあたる1165年、象頭山へ神霊を迎えて奉斎しました。
讃岐で暮らした崇徳天皇が、当時金毘羅大権現と呼ばれたこの地の神を信仰し、古籠所にこもって祈ったという伝承もあります。近くの御所之尾は、滞在先だったと伝えられる場所です。後のこんぴら信仰は航海者や、参詣を支え合う「講」と呼ばれる集まりへ広がり、崇徳天皇の奉斎も受け継がれました。
崇徳天皇が祀られている主な神社
坂出市には、滞在先や葬送の伝承に結び付いて、崇徳天皇の霊を祀った神社が集まっています。白峰宮は地元で「天皇さん」と親しまれ、鼓岡神社は木ノ丸殿の跡と伝わる場所に鎮座しています。
| 神社名 | 住所 |
|---|---|
| 白峰宮 | 香川県坂出市西庄町 |
| 鼓岡神社 | 香川県坂出市府中町 |
| 高家神社 | 香川県坂出市高屋町 |
| 青海神社 | 香川県坂出市青海町 |