順徳天皇は、承久の乱の後に佐渡へ流され、島で生涯を終えた第84代天皇です。その御霊を慰め敬うため、水無瀬神宮や真野宮などで祀られています。百人一首の100番の作者で、宮中のしきたりを記した『禁秘抄』を残した人物でもあります。
順徳天皇は何の神様?
順徳天皇は、都を離れた佐渡で亡くなり、その御霊を鎮め、生涯をしのぶために祀られている天皇神です。父の後鳥羽天皇とともに承久の乱に関わり、敗戦後は佐渡で約21年を過ごしました。神として祀られるようになった背景には、この悲運の生涯への追慕と、御霊の安らぎを願う人々の祈りがあります。
中世には、無念を残して亡くなった人の御霊が災いをもたらすと考えられ、その霊を慰める祭祀が行われました。順徳天皇も、父や兄とともに鎌倉で御霊を鎮める祭祀を受けてきました。朝廷と争った幕府の本拠地にも、亡くなった天皇を慰める社が建てられたのです。
配流先の佐渡では、火葬塚を守る寺院から、明治期の神社へと追悼の営みが引き継がれました。父の後鳥羽天皇ゆかりの水無瀬でも、兄の土御門天皇とともに祀られています。亡くなった地、家族ゆかりの地、かつて敵対した幕府の地。それぞれの社に、順徳天皇をしのぶ異なる歩みが残っています。
順徳天皇の別名
順徳天皇には、即位前の名のほか、配流先にちなむ呼び名や死後に贈られた名があります。百人一首で使われる「順徳院」も、その一つです。
| 区分 | 名称と意味 |
|---|---|
| 即位前の名 | 守成親王。諱は守成です。 |
| 配流地にちなむ呼称 | 佐渡院。佐渡へ流されたことに由来します。 |
| 死後の呼称 | 順徳院。1249年に贈られた諡号(死後の呼び名)です。 |
「上皇」は皇位を退いた天皇を指す呼び方です。順徳天皇は1221年に譲位しているため、承久の乱や佐渡での暮らしを説明するときには「順徳上皇」とも呼ばれます。
順徳天皇の御神格・ご利益・ご神徳
順徳天皇への祭祀の中心は、御霊を慰め敬うことです。順徳天皇を含む三天皇を祀る水無瀬神宮では、学問や安産などのご利益・ご神徳が伝わっています。
順徳天皇の御神格
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 御神格 | 都を離れて亡くなり、御霊を慰めるために祀られた天皇神 |
父の後鳥羽天皇、兄の土御門天皇とともに祀る社がある一方、佐渡の真野宮では順徳天皇を中心に祀っています。また、佐渡への途上に滞在した寺泊にも、崩御の知らせを受けて御霊を祀ったという由緒が残っています。ともに祀られる天皇や、滞在した土地との結びつきに沿って、各地で祭神として敬われてきました。
順徳天皇のご利益・ご神徳
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ご利益 | 学業成就・安産など(水無瀬神宮で祈られている願い) |
| ご神徳 | 学問・スポーツ、安産の神徳(水無瀬神宮全体で伝わる信仰) |
表に挙げた願いは、三天皇を祀る水無瀬神宮で受け継がれているものです。このうち学問・スポーツの神徳は、後鳥羽天皇の文武両道の才能に由来します。安産の信仰には、1347年に足利直義が妻の出産を祈ったという由緒があり、現在も安産祈願や腹帯の授与が行われています。
佐渡の真野宮には、順徳天皇とともに菅原道真や日野資朝が祀られ、学問や商売繁盛を願う参拝も親しまれています。祀られる神々とその土地の由緒に重なって、各社の信仰が育まれてきました。
順徳天皇の家系図・子供たち
順徳天皇は後鳥羽天皇と藤原重子の子で、土御門天皇の異母弟です。中宮には九条家の立子を迎え、皇位を継いだ仲恭天皇をはじめ、複数の皇子・皇女がいました。
| 関係 | 名前・説明 |
|---|---|
| 父 | 後鳥羽天皇。順徳天皇の在位中も上皇として院政を行いました。 |
| 母 | 藤原重子。修明門院とも呼ばれます。 |
| 妻・中宮 | 藤原立子。九条良経の娘で、東一条院の院号を受けました。 |
| 子(立子との間) | 仲恭天皇、諦子内親王。諦子内親王は明義門院とも呼ばれます。 |
| ほかの主な子 | 尊覚法親王、忠成王など。尊覚法親王は仏門に入り、忠成王は後に皇位継承の候補となりました。 |
| 兄・弟 | 異母兄は土御門天皇、同母弟は雅成親王です。 |
1221年に皇位を譲られた仲恭天皇は、承久の乱の敗戦後に皇位を退けられました。さらに1242年には忠成王が次の天皇の候補となりますが、幕府は土御門天皇の子を支持し、後嵯峨天皇が即位します。順徳天皇の子たちの将来にも、承久の乱への関与が影響しました。
佐渡には、順徳天皇の皇女と伝わる慶子女王の墓もあります。宮廷で知られる皇子・皇女のほかに、配流先で語り継がれてきた子どもの伝承も残っています。
順徳天皇の生涯と承久の乱
順徳天皇は1197年に生まれ、1210年に兄の土御門天皇から皇位を受け継ぎました。政治の中心には父の後鳥羽上皇がおり、順徳天皇は宮中の儀礼や和歌に取り組みながら、父の討幕計画にも協力しました。
1221年4月、順徳天皇は討幕の準備を進める父を助けるため、幼い仲恭天皇に譲位しました。同年5月に後鳥羽上皇が北条義時の追討を命じて承久の乱が起こると、朝廷側は幕府軍に敗れます。父は隠岐へ、順徳天皇は佐渡へ流され、再び京都に戻ることはありませんでした。
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、順徳天皇本人は画面に登場しませんが、終盤で北条義時と対立する後鳥羽上皇(尾上松也)は、その父にあたります。歴史上の順徳天皇もこの争いに深く関わり、敗戦による処分は本人の佐渡への配流にとどまらず、子どもたちの皇位継承にも影を落としました。
佐渡での最期と死因
順徳天皇は1242年、旧暦9月12日に佐渡で亡くなりました。数え年で46歳です。死因については、京都へ帰る望みを失い、食事を断ったとする説が伝わっています。
同時代の公家・平経高の日記『平戸記』には、順徳天皇が数日間食事を取らず、帰京の望みを絶たれたと考えていたという話が残っています。仕えていた人々が臨終の床で念仏を唱えたともいいます。これは平経高が宮廷に仕える女性たちから聞き書きしたもので、最期の詳しい様子までは伝わっていません。
佐渡の真野御陵は、正式には順徳天皇の火葬塚です。京都には大原陵があり、佐渡と京都の両方に順徳天皇をしのぶ陵墓が残っています。
順徳天皇の和歌と『禁秘抄』
順徳天皇は、宮中で歌会や歌合を盛んに催した歌人でもありました。歌合は、左右に分けた歌を比べ、優劣を判定する催しです。自ら歌を詠むほか、和歌の作り方や宮廷のしきたりを書物にまとめました。
百人一首の100番「ももしきや」に詠まれた宮廷への思い
小倉百人一首の100番、最後に置かれているのが順徳院の歌です。『続後撰和歌集』にも収められています。
ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり
意味は、「宮中の古い軒に生えるしのぶ草。その草を見るにつけても、昔はいくら懐かしんでも懐かしみ尽くせないものだなあ」というほどです。「ももしき」は宮中を指し、「しのぶ」には植物のしのぶ草と、昔を恋い慕う気持ちが重ねられています。
この歌は、歌や行事が盛んだった昔の宮廷を懐かしむ歌とも、天皇の政治が盛んだった時代への憧れを詠んだ歌とも読まれます。古い軒に生える草と「しのぶ」という言葉によって、過ぎ去った時代への尽きない思いを表しています。
詠まれたのは、まだ京都で天皇として過ごしていた建保4年(1216)ごろとされています。若い天皇がすでに「昔」に思いを寄せていたことも、この歌の味わい深いところです。百人一首では99番の父の歌と並び、後世には、配流された父子の生涯に重ねても読まれてきました。
『禁秘抄』と『八雲御抄』に残した知識
『禁秘抄』は、宮中の儀式や日々の作法を漢文で記した書物です。1219年ごろに書き始められ、1221年の譲位後も書き継がれたと考えられています。食事、装束、神事・仏事、仕える人々、詔書や改元など、天皇の身の回りから公の行事までを扱います。こうした昔からの制度や作法についての知識を「有職故実」といいます。
天皇自身が、宮中で何を用意し、どのように振る舞うかを記しています。たとえば討伐を命じる「追討宣旨」の項目では、使者に命令を授ける際の手順を説明しています。後の時代にも写本や版本が作られ、宮廷の故実を調べるための書として読まれてきました。
和歌の分野では『八雲御抄』を著し、歌に用いる言葉、歌合のしきたり、詠み方などをまとめています。1217年10月の四十番歌合では、自身も作者に加わり、歌を判定する役を担いました。歌を詠むとともに、ほかの作者の歌を批評し、和歌の知識を後世に伝えました。
順徳天皇の神話・伝承
佐渡に流された後も、順徳天皇は和歌を詠み続けました。1232年にまとめた『順徳院御百首』には、遠く離れた父や藤原定家に歌の評価を求めた交流が伝わっています。
海を越えて届けた百首の歌
『順徳院御百首』に伝わる父や藤原定家との交流をもとに、情景や心の動きを添えて物語にしました。
窓の外で風が鳴っていた。順徳天皇は筆を持ったまま、書きかけの歌に目を落とす。一つ言葉を替えて口の中で読み返しても、まだ思うような響きにならなかった。
佐渡へ来てから、幾度も季節が巡った。京の歌会で聞いた声も、歌の一字をめぐって交わした言葉も、今は遠い。白い紙を前にしていると、その距離がかえってはっきりした。
それでも、書いた歌を読んでほしい相手がいた。京都の藤原定家。そして、同じように海を隔てた隠岐にいる父の後鳥羽天皇だった。
順徳天皇は、紙の端を押さえてもう一度筆を動かした。墨を含んだ筆先が、ためらいながらも次の一字を置いていく。声が届かない場所へも、この歌なら渡せるかもしれなかった。
貞永元年。百首をそろえ、定家へ送り、歌の批評を求めた。父にも、よいと思う歌に印を付けてほしいと願った。
そろえた紙から手を離す直前、指先が止まった。百首のどこかに、思いばかりが先走った言葉は残っていないだろうか。読み返したくなる気持ちを抑えて手を引くと、ようやく肩の力が抜けた。
歌を前に、定家はどんな顔をするだろう。父は何首に印をくれるだろう。順徳天皇は、海の向こうにいる二人の姿を思い浮かべた。
定家はその歌に二度にわたって批評を加え、優れた歌に印を付けた。父も歌を読み、評価を寄せた。離れた場所から添えられた言葉が、同じ百首の上に集まっていく。
海は、その間にも変わらず広がっていた。けれど一首の歌のそばには、もう自分一人の声だけがあるのではなかった。順徳天皇の歌は、父と師の書き入れとともに、島の外へと伝わっていった。
順徳天皇ゆかりの神社・祀られている神社
順徳天皇は、父や兄とともに御霊を慰められる社と、配流や滞在の記憶を伝える土地の社で祀られています。佐渡から京都に近い水無瀬、幕府のあった鎌倉まで、異なる歴史を持つ祭祀が受け継がれています。
水無瀬神宮|父と兄とともに祀られる社
大阪府三島郡島本町にあり、祭神は後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇です。後鳥羽天皇ゆかりの水無瀬離宮跡を受け継ぎ、父を弔う祭祀から始まりました。1873年に順徳天皇と土御門天皇が合祀されています。
10月14日には「順徳天皇祭並表千家献茶祭」が行われ、茶を供えて順徳天皇をしのびます。12月7日の例祭をはじめ、年間を通じて三天皇を祀る祭事が営まれています。隠岐・阿波・佐渡と別々の地で亡くなった父子を、ともに敬う社です。
真野宮|佐渡で御霊を守り伝える社
新潟県佐渡市真野に鎮座し、順徳上皇を祀り、菅原道真と日野資朝を配祀しています。前身は火葬塚を守っていた真輪寺で、明治初年に寺院から神社へと移りました。1874年には県社に列せられ、真野宮と改称しています。
現在の社殿は1920年の造営で、1942年の700年祭には神門や神橋などが新設され、参道も広げられました。短刀、硯、扇子など、順徳天皇の遺品と伝える品々も保管しています。近くの火葬塚とともに、佐渡で亡くなった天皇への追慕を伝える社です。
今宮|鎌倉で三天皇の御霊を鎮める末社
神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮にある末社で、後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇を祀っています。本宮の背後にある木立の中に鎮座する、小さな社です。
今宮の始まりは1247年とされ、配流先で亡くなった天皇の御霊を慰めるために建てられました。中世には不遇のうちに亡くなった人の御霊が祟るという考えがあり、三天皇を鎮める祈りが鎌倉でも受け継がれてきました。鶴岡八幡宮の奥に、朝廷と幕府の争いの後に生まれた祭祀が残っています。
順徳天皇が祀られている主な神社
越之浦神社は、佐渡への途上に順徳天皇が滞在したと伝える寺泊の社です。山形県尾花沢市にも複数の御所神社があり、順徳天皇を祭神として祀っています。
| 神社名 | 住所 |
|---|---|
| 越之浦神社 | 新潟県長岡市寺泊 |
| 御所神社(正厳) | 山形県尾花沢市正厳 |
| 御所神社(下柳渡戸) | 山形県尾花沢市下柳渡戸 |
越之浦神社には、崩御の知らせを受けた五十嵐家が、かつての滞在地の脇に小祠を建てたという由来が伝わります。現在につながる神殿は1940年に建てられ、越之浦神社と名づけられました。
正厳の御所神社では、順徳天皇が佐渡を脱出してこの地で暮らしたという来訪伝説が受け継がれ、7月19日に例祭が行われます。佐渡を出て越後へ渡り、さらに最上川をさかのぼったという足跡まで語られる、土地に根づいた伝説です。同じ尾花沢市の下柳渡戸にある御所神社も順徳天皇を祀り、旧暦3月15日を例祭日としています。