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淳仁天皇(じゅんにんてんのう)は何の神様?廃位と最期・家系・祀られている神社 | 神様図鑑

淳仁天皇ジュンニンテンノウは、政争によって淡路島へ流された奈良時代の天皇です。その御霊を慰め、治世の功績を敬って神社に祀られています。元の名は大炊王オオイオウ。廃位と最期の経緯、父母や妻との関係、京都・淡路・琵琶湖畔に残る信仰を紹介します。

目次

淳仁天皇ジュンニンテンノウは何の神様?

淳仁天皇ジュンニンテンノウは、政争で都を追われた第47代天皇で、その御霊を慰め、治世の功績を敬うために神として祀られています。白峯神宮では、崇徳天皇ストクテンノウとともに、その守護と加護が願われています。

733年に生まれ、758年から764年まで在位しました。即位を支えた藤原仲麻呂が政争に敗れると皇位を失い、淡路島へ移され、翌765年に亡くなります。都に戻れないまま最期を迎えた天皇を悼むことが、後世の祭祀につながりました。

白峯神宮では、藤原仲麻呂を通じて進めた官制改革や租税の軽減、通貨の鋳造、困窮した人々の救済が、天皇の功績としてたたえられています。明治時代に御霊が淡路から京都へ迎えられ、無念を慰めて生前の働きを敬う祈りが、今も続いています。

淳仁天皇ジュンニンテンノウの別名と元の名前

淳仁天皇ジュンニンテンノウの元の名前は大炊オオイで、即位前は大炊王オオイオウと呼ばれていました。「淳仁天皇ジュンニンテンノウ」は死後に贈られた名です。古い史書や神社の由緒に出てくる呼び名には、次のような違いがあります。

区分 名称・意味
即位前の名前 大炊王オオイオウ。『続日本紀』が伝える本人の名です。
廃位後の呼び名 淡路公アワジノキミ、淡路廃帝アワジハイテイ。淡路へ移されたことや、皇位を廃されたことに由来します。
後世に贈られた名 淳仁天皇ジュンニンテンノウ。1870年(明治3年)に贈られました。

「廃帝」は、皇位から退けられた天皇を指す言葉です。明治時代には淳仁天皇ジュンニンテンノウの名が贈られ、歴代天皇の一人として位置づけられました。淡路の大炊神社では、即位前の名に結びつく大炊大神オオイノオオカミという祭神名で祀られています。

淳仁天皇ジュンニンテンノウの御神格・ご利益・ご神徳

淳仁天皇ジュンニンテンノウへの信仰には、天皇の御霊を敬って守護を願う祈りがあります。北野天満宮の末社では心願成就の神として祀られており、神社ごとに伝わる祈り方や由緒にも特徴があります。

淳仁天皇ジュンニンテンノウの御神格

項目 内容
御神格 御霊を慰め、治世の功績を敬って祀る天皇の神霊

天皇の御霊は、最期を迎えた土地や、ゆかりの伝承を持つ土地でも祀られています。淡路には埋葬地や幽閉地と伝える場所に社があり、琵琶湖畔の菅浦では、天皇が身を寄せたという伝承とともに敬われています。御霊を慰める祭祀に加え、土地の歴史や習俗を通じて天皇を身近に祀る信仰も続いています。

淳仁天皇ジュンニンテンノウのご利益・ご神徳

項目 内容
ご利益 心願成就(北野天満宮末社・淳仁天皇社)
ご神徳 御霊を敬う人々への守護・加護(白峯神宮の信仰)

心願成就は、心に抱く願いがかなうことを意味します。北野天満宮の境内にある淳仁天皇社は、この願いを託す小社です。白峯神宮では、両天皇への祈りと感謝を大切にし、その加護を願います。

白峯神宮でよく知られる球技上達の信仰は、境内の精大明神セイダイミョウジンに由来します。淳仁天皇ジュンニンテンノウの御霊を祀る祭祀と、蹴鞠から広がったスポーツの信仰が、同じ境内で受け継がれています。

淳仁天皇ジュンニンテンノウの家系図・関係する神々

淳仁天皇ジュンニンテンノウの父は、『日本書紀』の編纂を主宰した舎人親王トネリシンノウです。父方の祖父は天武天皇テンムテンノウで、母は当麻山背タイマノヤマシロでした。主な家族関係は次のとおりです。

関係 神名・人物名と説明
父 舎人親王トネリシンノウ。淳仁天皇ジュンニンテンノウは第7子にあたります。
母 当麻山背タイマノヤマシロ。即位後に大夫人の尊称を贈られ、廃位後は息子とともに淡路へ移されました。
妻 粟田諸姉アワタノモロアネ。藤原仲麻呂の亡くなった息子・藤原真従の妻だった女性で、大炊王オオイオウと再婚しました。
兄弟 御原王ミハラオウ、池田王イケダオウ、船王フナオウなど。いずれも舎人親王トネリシンノウの子です。

大炊王オオイオウと粟田諸姉アワタノモロアネの婚姻は、藤原仲麻呂がとりもちました。大炊王オオイオウは仲麻呂の邸宅である田村第に住み、皇太子に立てられる前から、仲麻呂と強い結びつきを持っていました。

即位の翌年にあたる759年には、亡き父・舎人親王トネリシンノウに崇道尽敬皇帝スドウジンキョウコウテイの称号が贈られました。

淳仁天皇ジュンニンテンノウの神話・伝承

淳仁天皇ジュンニンテンノウの生涯は、奈良時代の政治を伝える歴史書『続日本紀』に記されています。ここでは、淡路島への配流に至る背景と、幽閉先を出ようとした最期の出来事をたどります。

孝謙天皇コウケンテンノウ・道鏡との対立と淡路島への配流

757年、大炊王オオイオウは道祖王フナドオウに代わって皇太子となり、翌758年に孝謙天皇コウケンテンノウから皇位を譲られました。後ろ盾となった藤原仲麻呂は、恵美押勝エミノオシカツという名を与えられ、政権の中心で力を振るいます。この時代には官職の名称を唐風に改める改革などが行われました。

孝謙上皇コウケンジョウコウは、病気の際に仕えた僧・道鏡ドウキョウを信頼し、重く用いるようになります。淳仁天皇ジュンニンテンノウがその重用をいさめたことで、皇位を譲った上皇との関係も悪化しました。762年には、上皇が国家の大事や臣下への賞罰を自分で担い、天皇には通常の祭祀などを任せると宣言します。政治の主導権を握ろうとする上皇・道鏡と、淳仁天皇ジュンニンテンノウを支える仲麻呂との緊張が強まっていました。

764年に藤原仲麻呂の乱が起こり、仲麻呂は敗れて亡くなります。同年旧暦10月9日、淳仁天皇ジュンニンテンノウのいた中宮院は兵に囲まれ、上皇から廃位を宣告されました。母とともに淡路国へ送られ、外へ自由に出られない暮らしを強いられます。孝謙上皇コウケンジョウコウは再び皇位に就き、称徳天皇ショウトクテンノウとして政治を行いました。

淡路へ移された後も、淳仁天皇ジュンニンテンノウを再び皇位に就けようとする動きがありました。翌765年には、商人を装って淡路へ向かう人々がいるとして、国司に監視の徹底が命じられています。朝廷が復位の動きを警戒する中、淳仁天皇ジュンニンテンノウの幽閉は続きました。

垣の向こうへ踏み出した日

『続日本紀』に記された最期の出来事をもとに、情景や会話を添えて物語にしました。

垣の向こうにも、同じ空が続いていた。淳仁天皇ジュンニンテンノウは、行く手をふさぐ垣を見つめたまま、握っていた手をほどいた。自由に歩ける場所は、この囲いの内側だけだった。

淡路へ来てから、日々は過ぎていた。都へ帰る日を待っても、その日が来る気配はない。何もできない時間が積もるたび、胸の奥に押し込めた怒りが重くなった。

「ここを出る」

声にした決意を逃さないように、淳仁天皇ジュンニンテンノウは垣へ手を掛けた。体を持ち上げると腕に力が入り、息が詰まった。それでも手を離さず、向こう側へ足を下ろした。

踏みしめたのは、垣の外の土だった。胸のつかえが少しほどけたかと思ったとき、進む先に兵の姿が見えた。国司の佐伯助、高屋並木らが率いる兵だった。

淳仁天皇ジュンニンテンノウは立ち止まった。兵の向こうへ目を向けても、進める隙間は見つからない。垣を越えたばかりの呼吸だけが、まだ速かった。

淳仁天皇ジュンニンテンノウは、通ってきた方へ顔を向けた。先ほど越えたばかりの垣が目に入る。握りしめていた手をほどき、再び院へ戻った。

翌日、淳仁天皇ジュンニンテンノウは院の中で亡くなった。帰りたかった都へ、足を踏み入れる日は来なかった。垣の向こうには、前の日と同じ空が広がっていた。

⇒【ウィキソース】『続日本紀』巻第二十六・淡路公アワジノキミの最期はこちら

脱出を試みた翌日の死と、死因をめぐる説

淳仁天皇ジュンニンテンノウは、765年旧暦10月23日、数え年33歳で亡くなりました。『続日本紀』によれば、前日に垣を越えて脱出を図り、国司らの兵に阻まれて院へ戻ったのち、その翌日に亡くなったといいます。

この急死をめぐっては病死説や暗殺説があり、死因は今もはっきりしていません。幽閉先から出る望みを絶たれた天皇は、淡路の地に葬られました。

淳仁天皇ジュンニンテンノウの墓はどこ?淡路陵と伝承の地

宮内庁が淳仁天皇ジュンニンテンノウの陵として管理しているのは、兵庫県南あわじ市賀集の淡路陵です。木々に覆われた山形の陵で、1874年(明治7年)に現在の場所が陵として定められました。一般の参拝は拝所から行います。

淡路島には、この陵のほかにも天皇の埋葬地と伝える場所があります。大炊神社の天皇森や、宮内庁の市陵墓参考地となっている「丘の松」などです。

一方、琵琶湖畔の菅浦には、天皇が淡路を逃れて暮らしたという、歴史書とは異なる伝承があります。須賀神社の背後に残る墳墓も、天皇の御陵として大切にされています。

淳仁天皇ジュンニンテンノウゆかりの神社・祀られている神社

淳仁天皇ジュンニンテンノウを祀る神社は、御霊を京都へ迎えた白峯神宮をはじめ、淡路や菅浦などにあります。埋葬地の伝承を守る社や、天皇がひそかに暮らしたという物語を伝える社には、土地ごとの祭りや参拝の習わしが残っています。

白峯神宮|京都府京都市上京区

白峯神宮は、崇徳天皇ストクテンノウと淳仁天皇ジュンニンテンノウを本殿に祀る神社です。1868年に崇徳天皇ストクテンノウの御霊を迎えて創建され、1873年12月24日に淳仁天皇ジュンニンテンノウの御霊が淡路の御陵から移されて合祀されました。現在の白峯神宮という社名になったのは1940年です。

毎年4月14日には、春季例大祭として淳仁天皇祭が行われ、祭典に続いて蹴鞠が奉納されます。境内は和歌と蹴鞠の家として知られた飛鳥井家の邸宅跡で、その家が祀っていた精大明神セイダイミョウジンの祭祀も受け継がれました。

⇒白峯神宮公式サイトはこちら

須賀神社|滋賀県長浜市

琵琶湖の北端にある菅浦の須賀神社は、淳仁天皇ジュンニンテンノウ、大山咋神オオヤマクイ、大山祇神オオヤマヅミを祀っています。淳仁天皇ジュンニンテンノウを祀った保良神社に、明治末、小林神社と赤崎神社を合わせて現在の社となりました。菅浦では、天皇がこの地へ逃れて暮らしたという伝承が受け継がれています。

旧保良神社の本殿は東殿として残り、1832年に建てられた社殿です。神社の背後には天皇の御陵と伝える場所があり、手水舎から先は土足を避けて参拝する習わしがあります。4月の春祭には、3基の神輿が集落を巡ります。

⇒【滋賀県神社庁】須賀神社の紹介はこちら

大炊神社|兵庫県南あわじ市

南あわじ市志知中島の大炊神社は、大炊大神オオイノオオカミとして淳仁天皇ジュンニンテンノウを祀る神社です。即位前の名を受け継ぐこの社は、地域で「天皇さん」と呼ばれ、5月10日に例祭が行われます。

敷地には、淳仁天皇ジュンニンテンノウを葬ったと伝える天皇森があります。霜をよけるため、塚にこもを掛ける風習が伝わっています。宮内庁が管理する賀集の淡路陵とは別の場所です。

⇒【兵庫県神社庁】大炊神社の紹介はこちら

淳仁天皇ジュンニンテンノウが祀られている主な神社

このほかにも、境内の末社や合祀された祭神として淳仁天皇ジュンニンテンノウを祀る社があります。北野天満宮では末社の淳仁天皇社、兵庫県淡路市の大神神社では配祀神として祀られています。

神社名 住所
淳仁天皇社(北野天満宮末社) 京都府京都市上京区
天皇神社(野辺の宮) 兵庫県南あわじ市
大神神社 兵庫県淡路市
老林神社 兵庫県揖保郡太子町

野辺の宮は、天皇が幽閉された場所と伝わる社です。大神神社は1909年に天皇社を合祀し、老林神社では淳仁天皇ジュンニンテンノウを主祭神として祀っています。

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