徳川義宜は、尾張藩最後の藩主を神として祀った人物神です。名古屋・大須の三輪神社に祀られ、本人の名を冠した祭典が続いています。幼くして家を継ぎ、幕末から明治へ移り変わる時代を生きた当主でした。17歳で世を去った後も、父が捧げた品と神社の祭りに、その名が受け継がれています。
徳川義宜は何の神様?
徳川義宜は、尾張藩最後の藩主の霊を祀る神様で、名古屋・大須の三輪神社の祭神です。尾張徳川家の16代当主で、生前この社を厚く崇敬していた縁から、大正12年(1923)に「徳川義宜公」として迎えられました。
若くして亡くなった徳川義宜の霊前には、父の徳川慶勝が息子の使っていた太刀の外装を捧げています。その品と奉納を伝える書状は、後に三輪神社へ伝わりました。
現在も本人をしのぶ祭典が営まれ、同じ社に祀られる大物主神とともに、人々の健康や幸せを願う祈りを受けています。
徳川義宜の別名
徳川義宜の幼名は元千代、以前の名は徳川徳成です。「義宜」と名乗るようになったのは明治4年(1871)で、藩主や名古屋藩知事を務めたころは「徳成」の名を使っていました。
| 区分 | 名称・呼び方 |
|---|---|
| 幼名・以前の名 | 元千代、徳川徳成 |
| 神社での祭神表記 | 徳川義宜公 |
名古屋藩知事への任命を伝える明治2年(1869)の公文書にも、「徳川徳成」の名が登場します。一方、神社で使われる「公」は人物に添える敬称で、祭神名には後年の名である「義宜」が使われています。
徳川義宜の御神格・ご利益・ご神徳
徳川義宜は、旧藩主の霊を祀る人物神として敬われています。三輪神社では、大物主神とともに、崇敬する人々の健康と幸せを願う祈りが捧げられています。
徳川義宜の御神格
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 御神格 | 尾張藩最後の藩主を祀る人物神、三輪神社の祭神 |
三輪神社は戦国時代の創建と伝わる社で、徳川義宜は後から祭神に加わりました。すでに祀られている神と一緒に、別の神を迎えて祀ることを「合祀」といいます。同社では、古くからの祭神である大物主神と並んで祀られています。
徳川義宜のご利益・ご神徳
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ご利益 | 健康・多幸(三輪神社で大物主神とともに祈願) |
| ご神徳 | 人々の健やかで幸せな暮らしを見守る(三輪神社での信仰) |
三輪神社では毎月8日に大黒祭が営まれ、講員や崇敬者の健康と多幸が祈られます。令和8年(2026)7月にも、大物主神と徳川義宜へ、ともに祈りが捧げられました。
徳川義宜の家系図・関係する人々
徳川義宜は、14代藩主・徳川慶勝の三男で、母は側室の多満です。幼いころに叔父で15代藩主の徳川茂徳の養子となり、その跡を継いで16代藩主になりました。
| 関係 | 人物名・説明 |
|---|---|
| 実父 | 徳川慶勝。尾張藩14代藩主で、幼い息子の藩政を支えた人物 |
| 実母 | 多満。徳川慶勝の側室で、禎正院とも呼ばれる |
| 養父・叔父 | 徳川茂徳。徳川慶勝の弟で、尾張藩15代藩主 |
徳川慶勝は安政5年(1858)の安政の大獄で隠居謹慎を命じられ、弟の徳川茂徳が跡を継ぎました。万延元年(1860)には幕府の命令で、徳川義宜が叔父の養子となります。
徳川義宜が亡くなった明治8年(1875)、父の徳川慶勝は尾張徳川家の家督を再び継ぎました。すでに藩の制度は廃止されており、このとき復帰したのは尾張徳川家の当主という立場です。
徳川義宜の生涯と尾張藩の終わり
徳川義宜は安政5年(1858)、名古屋城で生まれました。文久3年(1863)に数え6歳で家督を相続し、尾張藩16代藩主となります。幼い当主に代わって政治の実権を握り、幕末の政治や軍事を主導したのは、実父の徳川慶勝でした。
明治2年(1869)、藩の領地と領民を朝廷へ返す「版籍奉還」により、徳川義宜は名古屋藩知事に任命されます。旧領地を引き続き治める役職でしたが、政府から任命される地方官へと立場が変わりました。明治3年(1870)に知事を辞して父が引き継いだ後、明治4年(1871)の廃藩置県で名古屋藩はなくなりました。
徳川義宜は明治8年(1875)11月、東京で亡くなります。満17歳、当時の数え年では18歳でした。
名古屋城には、本人が使った紺色の陣羽織も収蔵されています。背中に葵紋を付け、裏地を錦で飾った品で、着用者の体格に合わせて小ぶりに仕立てられています。弓を引くときに指を保護する白い革の手袋も伝わっており、右手の親指・人差し指・中指を覆う形をしています。
徳川義宜の神話・伝承
徳川義宜が亡くなった翌年の明治9年(1876)、父の徳川慶勝は息子の霊前供養のために太刀の外装を奉納しました。鞘や金具を備えたこの外装を「太刀拵(たちごしらえ)」といい、奉納を伝える書状とともに残っています。若い当主の短い生涯を、父が息子に捧げた品からたどる物語です。
父が霊前に捧げた、息子の太刀
『名古屋城調査研究センター年報3』の太刀拵と奉納書状の解説をもとに、情景や会話、心情を添えて物語にしました。
金の葵紋に、淡い光が当たっていた。徳川慶勝は、目の前の太刀へ伸ばした手を止める。持ち主のいなくなった品を見つめていると、呼べば息子が入ってくるような気がした。
徳川義宜が死んで、年が改まった。明治9年、父はもう一度、尾張徳川家を背負っている。幼かった息子が継いだ家を、息子に先立たれた自分が継いでいた。
あの子には、まだ先があったはずなのに。そう思った途端、喉の奥がつまった。名を呼ぶ代わりに、父は長く息を吐いた。
鞘には細かな金の輝きが広がり、その上に葵の紋が並んでいる。銀の金具も、以前と変わらず光っていた。この品を身につける息子だけが、もういない。
「お前のものだ」
父はようやく手を添えた。指を離そうとして、ためらう。戻ってこない息子へ、今できるのは、その霊前に品を捧げることだった。
ゆっくりと手を引く。離した指先には、まだ重さが残っていた。徳川慶勝は目を伏せ、息子の名を胸の中で呼んだ。
この供養を記した書状は、太刀の外装とともに残った。品はのちに三輪神社へ伝わり、金の葵紋も銀の金具も、長い年月を越えて残る。かつてそれを持っていた、徳川義宜の名とともに。
⇒【名古屋城】『名古屋城調査研究センター年報3』太刀拵と霊前供養の解説はこちら
徳川義宜ゆかりの神社・祀られている神社
徳川義宜を祀る大須の三輪神社には、尾張徳川家が関わってきた歴史が残っています。本人をしのぶ祭典のほか、境内の史跡にも藩主家と神社とのつながりを見ることができます。
三輪神社|尾張最後の藩主を祀る大須の社
三輪神社は愛知県名古屋市中区大須に鎮座し、大物主神と徳川義宜公を祀っています。大正12年(1923)に迎えられた徳川義宜公をしのび、毎年祭典を営んでいます。
境内には、寛文8年(1668)に設けられた尾張徳川家の矢場の跡があります。京都の三十三間堂で行われた「通し矢」に向けた修練場で、周辺の地名「矢場町」の由来にもなりました。三十三間堂の長い廊下を模した稽古場が造られ、歴代藩主からは供物の米も奉献されていました。
11月18日は徳川義宜公祭の日です。令和3年(2021)には、祭典に合わせて「徳川義宜」の文字で金鯱をあしらった御朱印が頒布されました。参列方法や御朱印の内容・頒布日は、その年の神社のお知らせで確認できます。